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振り子とチーズケーキ③私は想像の旅に出る

振り子とチーズケーキ②の続きです。あっさりした内容かと思いきや、内容を書き出してみるとかなりの量だったのでびっくりしました。小ネタ多かったもんなあ…。ここからは考えたことや思ったことを書いていきます。観劇の際には私の中には3人の私が居ます。小姑のように意地悪な見方をする奴と、ただひたすら楽しもうとする奴と、冷静に全体を観ている奴。彼らの力を総動員して書きました。ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください。また、これから書くことはあくまでも私の解釈です。私はこう見たから面白かったんだよってことですのでご了承ください。他の人はどのように解釈したのか気になりますね。

・静かで地味で濃厚な

振り子とチーズケーキは、上演前に賢太郎さんがmessageに書いていた通り、静かで地味で濃厚な作品です。主人公が自問自答を繰り返す作品で、内面ばかりが描かれています。その内面には固有性がなく、だからこそ、人の内面に深く入り込んでくるのです。この作品の主人公に竹井さんが選ばれたのは、KKPに出演した役者さんたちの中でどこにでもいそうな人物を一番上手く演じられる人だからでしょうね。ただ、賢太郎さんの声に合わせて普通っぽい竹井さんが動くのは、仁さんとはまた違った面白さがあったと思います。

・フライヤーとアトランティスへの地図との関連性

今回のフライヤーは、見る者を不安定にさせるような厚い雲の層が印象的で、その雲の下で本を読んでいる男の顔がぼやけています。この男は「振り子とチーズケーキ」という本を読む私達を表しているのかもしれないと思いました。そして、「振り子とチーズケーキ」では主人公が「アトランティスへの地図」を読み、「アトランティスへの地図」でもレオナルドが「アトランティスへの地図」を読み、といった感じで、虚と実を合わせたマトリョーシカのような構造になっているのではないかと思いました。凝ってるなあ…(・∀・)

アトランティスへの地図」は変な話です。妖精は「ピーターパン」のティンカー・ベルのように登場人物を別世界へと連れて行く存在なのでしょうが、レオナルドは彼女の力は借りたくなかったようです。あくまでも自分の力でアトランティスを発見したかったからでしょうか。彼が妖精と揉めながらもたどり着いたのは、アラモアナショッピングセンター。

今や虚構の世界は現実と地続きで、妖精に魔法の粉を振りかけてもらう必要はなくなってしまいました。しかし、レオナルド達から見れば、アラモアナショッピングセンターは別世界であることに変わりはありません。現実の世界に生きる人とは違った視点でこの世界を見ることができるはずです。現実の世界に生きる人達もそういう視点で現実を見てみると、それまでとはまた違って見えるのではないでしょうか。東京から北三陸へ来た「あまちゃん」の天野アキのように。孤児院からグリーンゲイブルズへ来た赤毛のアンのように。

・日記の女性とは?

花柄の日記の内容を劇場で聞いていて思ったのは、自分だったら日記にこういうことは書かないだろうな、ということでした。食べ物の感想は上手く言葉にできなくてああなったのでしょうからそれは置いとくとして、問題は男性の描写です。私が書くなら、紳士的とか情熱的とか、腹筋がすごかったとかいう属性的な事柄も書くでしょうが、そういうことよりも何を話したか、二人で何処に行ったか、男性に何をしてもらったか、自分は男性に何をしたか、という具体的な行動とそれに対する感想をもっとたくさん書くと思うのです。だから、これが実際の体験を書いたものではないのは、事実が明らかになる前から何となく分かりました。

彼女の日記に書かれている男性は、あまりにも抽象的でステロタイプです。個別的、具体的でなく、情報があまりに少ないのでリアリティがありません。まあ、主人公の関口まみや岡崎しのぶのイメージも彼女の理想の男性よりは詳細ですが現実離れしているので、どっちもどっちですね。主人公と彼女は似た者同士と言えます。コミカルに表現されてはいましたが、日記に書かれている理想の男性像にも、関口まみと岡崎しのぶにも、リアリティのない理想への皮肉が込められているのかもしれないと思いました。

彼女の日記はどうしてあのような内容になったのか。これについては創作する側の視点に立って考えてみると、自分の中に思い当たらないことがないわけでもないです。10代前半の頃、友達と共同で小説や漫画を書こうということになり(友達もオタクだった)、最初のうちは盛り上がりながら楽しく書いていたのですが、結局書き上げることができずに途中で終わってしまったことが何回かありました。

何故そうなったかというと、キャラクターの設定にばかりこだわり過ぎていたからなんですね。複数で一つの作品を作る難しさもありましたが、それが一番の原因だと思います。特殊な能力を持っていたり、生い立ちが不幸だったり、見た目が奇抜だったりという設定を作ることにばかり力を注ぐあまり、それが肝心のストーリーや世界観と噛み合うかどうかにまで考えが回らず、キャラクターを動かしきれてなかったわけです。女性の日記にもそれと共通するものを感じました。彼女も理想の男性のキャラクター設定を作ることを楽しんでいたんじゃないでしょうか。

大塚英志さんの「物語消費論改」に書いてあったことですが、人間は「書く欲望」とそれを「公にする欲望」を持っているそうです。それらの欲望は必ずしもセットで行使しなければ満たされないわけではなく、他人が作ったものをインターネットで発信し、「公にする欲望」だけを行使して満足する人もいるのだとか。

物語消費論改 (アスキー新書)

物語消費論改 (アスキー新書)

彼女の場合は「書く欲望」を単独で行使していたのではないでしょうか。つまり、ただ純粋に書いて楽しみたいから書いていたのであり、書いたものを人に見せて自分のことを分かってもらいたいとか、認められたいとは思ってなかったのでしょう。だからブログではなく日記帳で自分の分身に旅をさせていたのだと思います。

こういうことをする女性の性格は、まあ間違いなく地味でしょう。リア充ならばこんなことしている暇があるならとっとと彼氏を作って、その人と一緒に海外旅行に行きますよ。おそらく、彼女は勤務先であるスーパーと自宅を往復するだけの毎日に何か満たされないものを感じていて、それに抜け道を作ってくれていたのがこの日記だったのだと思います。内容や出来に違いはあるものの、土佐日記紀貫之が実体のない女になりすまして彼女の目を通して55日間の旅を綴ったように、彼女も日記を書いている間は世界中を旅する架空の私になったつもりで楽しんでいたのでしょう。

<続く>