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ぼくを葬る

このところ自分の中でフランソワ・オゾンブームが到来しているので、オゾン監督の映画で観ることができるものを片っ端から観ています。どれも作風は違えど奇妙な味のする映画ばかりです。その中の一つ「ぼくを葬る」を紹介することにします。「葬る」と書いて「おくる」と読みます。

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オゾン監督の「まぼろし」は夫の喪失を妻が幻の夫と暮らしながら受け入れていく映画でした。「ぼくを葬る」は末期癌で余命3ヶ月と診断されたゲイのカメラマンが自分の死を受け入れる映画。この二つは是非セットで観ることをお勧めします。


パリに住むロマンはファッションフォトグラファー。自分の死期が近いことを知った彼は混乱し、不安定になります。しかし、自分の家族にも恋人のサシャにもそれを打ち明けられません。

実家のアパートのエレベーターで「皆を愛してる。僕は重病なんだ。もうじき死ぬ…」とつぶやいていたことを考えると、最初は家族に打ち明けようという気持ちはあったのでしょう。ところが、いざ実家に帰ると家族に八つ当たりしてしまうロマン。特に離婚してナーバスになっている姉に対しては刺々しく、あやうく取っ組み合いの喧嘩に発展しそうになりました。

その後のロマンを送る父との車の中でのやり取りがなんとも切ない。父は浮気をしまくり、家庭を崩壊させた張本人です。そのことで負い目を感じているのか、息子が麻薬に手を出しても姉や母に暴言を吐いても厳しいことを言えません。「ロマン、母さんを苦しめるな」と自分以外を引き合いに出すことでしか感情を表現できない不器用さ。日本の父親もフランスの父親も一緒だなあ。

それからロマンは、サシャに突き放すように別れを切り出します。当然サシャは激怒。疲れ果てて眠るサシャの写真をロマンが撮っていると、サシャのこめかみから一筋の血が流れます。私はこのシーンを観てサシャが自殺したのかと思ったのですが……。
なんだろう、このシーン。ロマンの頭に一瞬サシャと一緒に死ぬという考えがよぎったのかなあ。セックスの最中にサシャの首絞めてたもんな。オゾン監督の映画には必ずこのような謎があります。

結局ロマンは祖母だけに心を開き、自分のことを打ち明けます。理由は自分と似ているから。彼女もロマンと同じように孤独で死が近いのです。祖母は祖父の死後に家を出て愛人に走り、その代償として孤独な老後を送っています。彼女はバッチリ化粧をして着飾り、健康や美容のために数多くのサプリメントを飲み、夜は裸で眠ります。こういう所に彼女の生きる辛さが表れていると思いました。おそらく彼女は「女でいること」を支えにこれまで生きて来たのでしょう。

「今夜――あなたと死にたい」

祖母のこの一言でロマンは救われたと思います。

ロマンは祖母の家の近くを散歩し、幸せだった幼い頃のことを思い出します。彼にも父と素直に会話し、姉と楽しく遊んでいた時があったのです。姉からの手紙をきっかけに、ロマンは電話で姉に謝り、和解します(直接会って話さないところがロマンらしい)。会ったらまた喧嘩になるかもしれないからかな。

彼の家族や恋人に対する感情は複雑です。好きなだけではないし、嫌いなだけでもない。ただ、彼にとって大きな存在であることは確かなのです。「まぼろし」のマリーの言葉で言うと、「重い」存在。

頼りなかったサシャは、ロマンと別れたことをきっかけに激変。就職して自立し、ロマンの誘いを突っぱねることができるようになりました。

身近な人とのお別れは果たした。
今は仕事としての写真ではなく、自分の本当に撮りたい写真を撮っている。
他にやり残したことは?

そんな時に、ロマンは自分に代理父の話を持ちかけた夫婦のことを思い出します。彼はその夫婦の要求を受け入れ、なんとも妙な形で精子を提供します。でも、不思議と不快感はありませんでした。生き物として自分の生命を次に繋げること。これが彼の最後に果たした大きなことでした。

その後、ロマンはどんどん痩せて弱っていきます。それと反比例するようにどんどん大きくなる母親のお腹を彼は愛おしそうに見つめます。その微笑みはひたすら透明で美しいものでした。彼はいつの間にか、列車の中で乳を飲む赤ん坊や浜辺で遊ぶ若者の命の煌きに優しい眼差しを向けられるようになっていました。

ロマンは子供の頃に見た兎のように死んでいきます。その死にざまは、どこまでもひっそりしているのに私の心に深く染み渡るものでした。

親や恋人に何も言わずに一人で死ぬロマンは、確かに祖母の言うように幼稚で身勝手かもしれません。私も残される立場であれば正直に話して欲しいと思うでしょう。しかし、正直に話すことが必ずしもいいとは限らないし、家族や恋人であれば何もかも分かり合えていなければならないとも思わないんですよね。話してしまえば楽になれるでしょうが、相手に自分の抱えている重荷を分け与えることになります。それを彼は望んでいなかったんでしょうね。相手を混乱に陥れ苦しませるよりは、自分の墓場まで秘密を持っていくことを選んだということでしょう。

この映画の製作年度である2005年のフランスでは、まだ同性婚も同性愛カップルによる養子縁組も認められていませんでした。ゲイとして生きていくことは今よりもさらに孤独なことだったのです*1。しかし、自分でその生き方を選んだからには誰にも頼りたくない、同情されたくないという意地がロマンにはあったのかもしれません。

この世は生きている人のためにあるのだと思います。死ぬ寸前までどのように生きたかでその人の価値は決まるのです。死んだ自分は自分のものではなく残された人のもの。
この映画は死を美化してお涙頂戴の物語にせず、生きることを丁寧に表現しているから後味がいいのだと思います。

オゾン監督が映画を作ることで繰り返し観客に訴え続けているのは、自分の生きたいように生きるということではないでしょうか。たとえ同性愛者であろうと良妻賢母だろうと犯罪者だろうと背中に羽が生えていようと関係なく。

*1:2013年5月17日に同性婚法が成立