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大島弓子にあこがれて

前回も紹介した「大島弓子にあこがれて」。


お菓子研究家の福田里香さん、漫画研究家の藤本由香里さん、漫画家のやまだないと先生。このお三方が「私が見つけた大島弓子」を語る本です。


他には、大島弓子先生のカラーイラスト、雑誌コラムやエッセイ、予告カット、レターパッドなどの付録、漫画に出てくるお菓子のレシピ、やまだないと先生の書き下ろし漫画などが収録されています。


私が大島先生の漫画と出会ったのは20世紀の終わり。ギリギリ少女と呼べる頃に図書館で読みました。なので、70年代、80年代からのファンが羨ましくてたまらないんですよ。ああ、私も自分より少しお姉さんの漫画家の生活に憧れ、漫画に書かれたローマ字の私信にドキドキし、可愛い雑誌付録をコレクションする、そんな少女時代を送りたかった…。

きゅうりをうえてきゅうりもみ
トマトをうえてトマトジャム
かぼちゃ煮つけと
パンプキンパイ
とうもろこしにおなすにいちご

切れぎれの独白(モノローグ)、疾駆する夏の翳り、溶ける子守唄よ

不眠の春、所業無常のコンデンス・ミルク


大島弓子先生の言葉の使い方は詩的で素晴らしいのですが、雑誌の一言コメントでもその才能を発揮しています。リズムが良くて、字面も綺麗で、色や匂いや情景が鮮明にイメージできますね。


さて、これからお三方が語る大島弓子論の中で私が印象に残ったものを紹介していきたいと思います。まずは、藤本由香里さんから。

大島さんの作品というのは、あらゆる少女漫画の中で最も純粋な形で「母的なるもの」を追求してきたのではないかと思っています。


この考え方は目から鱗でした。背伸びした少女だけでなく、男性も母的存在になろうとするのが大島先生のユニークさでしょうか。

強く思い続けていれば、世界は変容する。こだわりを突き詰めたところを抜けたら、そこはこんなにも自由なんだ。


そういうことを描いてくれるから私は大島先生が好きなんだろうなあ。しかも、おためごかしじゃなくて読者にちゃんと実感させてくれるんですよね。この世界がパーッと開ける感覚は他の漫画家の作品では味わえないのです。


続いて、福田里香さん。

「かわいい」と「怖い」は似てるでしょ。怖いものを隠そうと思ったら、かわいものの皮で隠すでしょ?体に悪いものとかも、かわいくしちゃうと人はつい食べてしまうということと似ていると思います。


大島先生の漫画って、可愛いしおしゃれなんだけど、時々不意打ちを食らうんですよ。可愛いものの中に死や性や老いや狂気が隠れてるんです。だから読んでると、あの背景が真っ黒のコマの中に自分が放り込まれたような気分になることがあります。


福田里香さんのビスケットと苺の実験も面白かったです。一緒に食べても漫画のようにラッカーの味はしないんですって。大島先生は森茉莉ファンだそうですが、森茉莉の作る料理にも、読んでイメージした味と実際の味が違うものがありますよ。まあ何にせよ、読者を憧れさせることができたら勝ちだと思います。


やまだないと先生が漫画家の目線で語っていたことも興味深かったです。まるごと引用すると長いので、勝手ながら要約して書きます。

マンガを描く人っていうのは、言えないことがいっぱいあって、描くしかないから描いていると思うんですね。他人には伝えられないことを自分のために描いている。でも、作品にだって全部は出せない。知られたくないから描けないのではなく、描く術がないんです。共通の言葉に置き換えて多くの人が納得できる形にすればするほど、それは本質とずれていく。でも、どんなに描けなくても、私もマンガ描くのがやめらんないでしょう?知られ方に対しての理想が、きっと高いんでしょう。

マンガに出てくる人間関係が、大島先生の全人間関係ってわけじゃないじゃないですか。ダメな自分でも乗り切って大丈夫な自分が大丈夫な自分を書いているのであって、本当に許せない自分は描けないですよ。


私は時々思うんですよね。自分が思っていることを包み隠さずに全部言っちゃう人は、きっとクリエイターにはならないんじゃないかって。だって、全部言ったら気が済んでしまいますから。何かを創りたいという動機なんて生まれるはずがありませんよ。

何かを創る人は、言えずに溜め込んだものを自分の内側で発酵させた後に、作品として昇華してるんだと思います。けど、溜め込んだものを全部出してるわけじゃないんでしょうね。本当に言いたいことは、ある程度時間が経って大丈夫にならないと表には出せないものです。

自己像であろうとも、人に見せるからには多少は切ったり盛ったりしているんでしょうし、作品の中に理想の自分を描くこともあるから、現実の自分と全く同じにはならないはずです。そもそも、思う存分嘘をつけるのが創作なのです。


読者の受け取り方も様々ですね。てんでばらばらの「わたしだけの大島弓子」が読者の数だけ存在しています。大島先生が全部書いてなければ当たり前のことです。どれが正しくてどれが間違っているというわけじゃない。大島先生の想定していない読み方の方が、大島弓子らしいってこともあるかもしれません。私はこの本を読んでいる間、先輩の大島弓子ファンと対話しているようで楽しかったです。