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「本題」と「僕がコントや演劇のために考えていること」

先日「本題」と「僕がコントや演劇のために考えていること」を読みました。

「本題」は、小説家の西尾維新先生の対談本です。

西尾維新対談集 本題

西尾維新対談集 本題

私は西尾先生の本を一冊も読んだことがないのですが、それでも楽しめました。
随分と多作な方なんですね。びっくりしました。1日2万字ってなんじゃそりゃ。正気の沙汰じゃないわ。

西尾先生は作品の中で言葉遊びをしたり、次々と新しいことに挑戦したりするところが、賢太郎さんと似てるんですかね。それで、賢太郎さんも西尾先生のことを「仲間」だと認識したのでしょう。結構手の内を見せてくれてました。多分、「この人は話の通じる人だな」と思わなければ、形式的、表面的な事しか言わなかったんじゃないかと思います。


賢太郎さんがラーメンズ時代の話を喋ってくれたのが嬉しかったです。「読書対決」を作ったいきさつは、読んでいて流石だなあと思いました。法の目を掻い潜る手法で作られたラーメンズらしいコントだったんですね。


賢太郎さんが「仕組み」「オチ」「中身」の順で創るというのは、今後賢太郎さんの作品を観賞する際に活かせそうですけど、知らないなら知らないで観るのも悪くはないでしょう。知ってしまうと、知らない視点では見られなくなるというデメリットがありますし。


自分で創ったキャラクターが勝手に動き回る瞬間のことをお二人で語り合っていましたけど、とても不思議な体験ですね。自分で作ったキャラクターなのに、独立した意志を持ち、知り合いとして存在するようになる。人が愛着を感じるのってこういうキャラクターですよね。


賢太郎さんは「主人公が成長することであるべき状態になるというものではないストーリーを作りたい」と思っているそうです。言われてみればKKPにはそういうところがあるし、最近の作品(振り子とチーズケーキ、ノケモノノケモノ)は特にその傾向が強いですね。まあ、人間なんてそうそう成長しないですよね。別人のように変わったように見えても、本質的な部分は変わらないんでしょう、きっと。でも、経験は蓄積されていくはずなんですよね。そこがKKPの登場人物たちの以前とは違うところではないかと私は思います。

賢太郎さんは、枷をはめて成長を促す自分のことを宿題型パフォーマーと呼んでましたけど、ぴったりのネーミングだと思いました。

賢太郎さんの「作る」ということのほうが「出す」よりウエイトがぜんぜんでかいんだ、という発言。あれは嘘なんじゃないかと思いました。仁さんが昔賢太郎さんに「お前出たがりだろ!」と言ったことがあるそうですし。それに、対談中にあれだけどう褒められるかへのこだわりを語り、実際に身を削るような努力をしている人が、「出す」というお客さんから直接反応の返ってくることを軽んじられるわけがないですよ。「パン屋」の喩えで何を言いたいかは分かりますけど。作品は面白くても、自分は面白い人間ではない。だから、表に出ている時以外はそっとしておいて欲しいってことでしょう。


結局、私がこの本の中で一番面白かったのは羽海野チカ先生との対談でした。賢太郎さんと西尾先生は師匠と弟子。荒川弘先生とは大人と子供。辻村深月先生とは妹と兄。堀江敏幸先生とも師匠と弟子。五人の対談者の中では羽海野先生との関係が一番対等だったからか、話の広がり方も一番よかったです。非常に熱くて密度の濃い対談でした。


絵を描くことだけを頼りに居場所を見つけて、後戻りできないところまで来てしまい、これからも厳しい世界で戦っていく羽海野先生。その生き方が「ハチクロ」のはぐちゃんや「3月のライオン」の零くんと重なって見えました。辻村先生は、自分の好きなことで居場所を見つけることを「孤島にたどり着く」と表現してました。違うタイプの作家に思わぬ共通点があるものだなあと読んでいて興奮しました。アシスタントさんとの人間関係も、なかなか漫画だけでは知ることができないことなので貴重でした。あと、ひなちゃんの「いじめ問題」を描いた理由を詳しく知ることができたのもよかったなあ。私もあれは長くても絶対に入れるべきエピソードだったと思います。


荒川先生との対談は、お二人のタイプが違い過ぎて時折噛み合ってなかったかな。荒川先生は、私が想像していた通り物凄く地に足のついた人でした。隙のないストーリーの組み立て方、登場人物の肉付け、漫画家としてのあり方、作品を生み出す明確な動機。完璧です。「鋼の錬金術師」の最後の原稿を描き終えた時のエピソードは、修羅場の後の淡々とした充実感をお裾分けしてもらっているような気分で読みました。焼肉を食べに行こう、それから寝るぞっていうのが、凄くいいですね。かっこいい。


それぞれの作品に掛ける情熱が迸るような対談集でした。内容が濃いので、高カロリーな食べ物をインターバルを挟みながら食べるように読み進めていかないと、とても消化できませんでしたよ。



「僕がコントや演劇のために考えていること」は、タイトルそのまんまの内容。messsageと過去のインタビューや対談を合わせたような感じ。


賢太郎さんが何故この本を書こうと思ったのか。誰に向けて書いたのか。私にはいまいちよく分かりませんでした。お客さんから質問されたことに一気にどーんと答えるようなつもりで書いたんでしょうかね。


本って少しは双方向の要素があるメディアだと思うんですけど、この本は張り紙のように一方通行。読んでいて、自分が硝子窓にぶつかってはうろちょろする頭の悪い虫になったような気分になりました。読み進めていくと、たまに筆が滑ってそうじゃなくなっているような箇所があって、そこは面白く読みましたけどね。下積み時代の話とか、子供の頃の話とか、スタッフとの間で苦労した話とか、朝のゴールデンタイムの話とか。創作の楽しさについて書いてあるところは文章に瑞々しさがありました。


書いてあることは、ものを創る前の前の段階と創り始めてからの段階がほとんどでした。私が知りたいのはその間だったので、若干物足りなさを感じました。物語の力って、枷をはめるだけじゃ生まれないと思います。


なんというか、賢太郎さんが理想と自分を比べ過ぎている感じがして、読んでいて息苦しかったです。間違ったことは書いてないですけど、言葉が頭でっかちで、体が伴っていない感じがしました。


きっと、賢太郎さんの理想はフィルターを幾重にも通したように清浄なんでしょう。賢太郎さんにとって不要なものを除去することで成り立っている。私は賢太郎さんの作品の中に時折見られる、猥雑で混濁したものが好きなんですけどね。もちろん、賢太郎さんの生真面目さや潔癖さから生まれる透明な美しさも好きですよ。しかし、宝が眠っているのは多様性を受け入れる方向ではないでしょうか。


一番最後の二行。私にはこれだけで十分でした。
創らなければならないという祝福と呪いに取り憑かれ、これからも賢太郎さんは小林賢太郎でいるのでしょう。


「本題」で賢太郎さんが観に行ったと言っていた「風立ちぬ」。あれは戦闘機を作りたい。金が掛かろうが、人が何人死のうが関係ない。気が向いた時だけ妻の美しさを愛でたい。こんな俺だけど、妻は許してくれるよな。美しいものが好きなんだからしょうがないじゃないか。俺はそういう人間なんだよ!!文句あるかあああああ!!!!という恐ろしく身勝手な主人公(=宮崎監督)の主張を圧倒的な映像美とパワーで表現した作品なんですけど、あれだけ美に生きる人間の清さも汚さもゴンヌズバー!(大槻ケンヂ語)とさらけ出されたら、こちらも「参りました」とひれ伏すしかないですよ。凄い作品であることは間違いない。好きじゃないけど。


ああいう表現に賢太郎さんが憧れるというのは、分かるような気がしないでもない。しかし、あれは自分の中の地獄の釜の蓋を開けてガン見しないとできない表現だと思います。ああいうことをすれば、本人が大火傷を負うのは確実だし、家族や取り巻きや観客を傷付ける可能性もあります。今の時点では賢太郎さんはそこまで鬼になれないでしょう。


作品が発表されるたびにテーマが少しずつ展開しながら変わってきているのは分かります。西尾先生との対談時や「僕がコントや演劇のために考えていること」を執筆時の賢太郎さんと今の賢太郎さんは違うと思います。焦らずにとにかく創り続けて欲しいです。


昨日賢太郎さんの個展が始まりましたね。おそらくこの二冊の本を読むよりも、個展に行って自分の目で直に作品に触れたほうが感じ取れるものは多いと思いますよ。