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狐の嫁入り

先日用事があり、車に乗って出かけた。空に浮かぶ雲はまだらで、太陽の光はまるで磨硝子を通したように心許なかった。

千代へと続く橋を渡る前、自分の車の十米程先に巨大な如雨露で水を注いだような雨が降っていた。狐の嫁入りである。空から透明な糸をいくつも吊り下げたような水滴にスポットライトのような光が絡まり、夢のように美しかったが、不気味だった。この雨を通り抜けたら何処か別の世界に行ってしまいやしないか、或いは同じ所を何度も何度も通るばかりで一向に目的地にたどり着けないのではないかと恐ろしくなった。ハンドルを持つ手は一層冷たく、鳩尾辺りも一層窮屈になるのを感じた。けれども、実際には何も起こらなかった。実に残念である。

通り抜けた先にあったのはくすんだ雲で、車の窓には時折思い出したかのように雨粒が落ちた。車内には通り抜ける前と同じようにスケッチショウの音楽が流れていて、靄の中で泡のように弾ける電子音と中年男性二人の綿のような歌声に安堵しながら目的地に着いた。その後も晴れと雨の混じったこの奇妙な天気は、間にちょこちょこ曇りを挟みつつ長々と続いた。狐の嫁入りは恙無く終わっただろうか、と想像してみる。おそらく、彼等は人を化かしている場合ではなかったのだろう。

狐の嫁入りを知ったのは、もう二十年以上前のことである。当時親に買ってもらった子供向けの妖怪図鑑で知った。私は大の妖怪好きで、小学生の時分には本で覚えた妖怪のことをべらべらと友達に喋っていた。その友達はにこにこしながら聞いていた。しかし、今思い返してみれば、迷惑だと思っていたかも知れない。もし本当にそうであったとすれば、一寸としたテロである。

狐の嫁入りと同じく天気に関わる妖怪に日和坊というのが居て、子供の頃の私はこの妖怪が特に好きだった。日和坊は晴天時に山奥の岩場にぼうっと姿を見せる妖怪で、晴れを呼ぶそうだ。今も残るてるてる坊主を軒先に吊るして晴れを祈る風習は、日和坊を祀るものとされている。私はこの妖怪を知った時、妖怪の中にこういうぼんやりとしたやつも居るのかと、妖怪という存在の多様さに感銘を受けたものだ。ただし、この妖怪は中国の魃(日照り神)とも同一視されているので、単に益を齎すだけの妖怪ではない。舐めてかかると痛い目に遭うだろう。

妖怪の仕業とされていた現象のうち、不知火や鎌鼬等、今では科学的に説明できるようになってしまったものがいくつかある。しかし、今でも不可解なことはある。減りはするかもしれないが、なくなりはしない。世の中の常識が変われば怖いものもまた変わるからだ。

「怖がりでない人達は、平気で怖いことをするので、早死する確率が高い」と「いたいけな瞳」の独眼竜お手伝いさんは云っていた。怖さを感じることは危険を事前に察知することでもある。

私は怖いものを恐れながらも愛する。恐怖を感じ取る想像力を失いたくはない。私は恐怖と向き合い、仲良くすることで、自分の生を噛み締めているのだ。

用事を終えてから帰宅して、トウヤマタケオさんと徳澤青弦さんがお二人で作られたアルバム「awakening」を聴きながら内田百閒の小説を読んだ。いつ降り出したか分からぬ雨のように始まり、筋らしきものもなく淡々と進み、終わったという感じもせずに終わっていく。そういうところが両者の共通点だろうか。

百鬼園先生の書かれたものは面白いが、身近に彼のような老人が居たら確実に面倒くさいだろうと思う。浮世離れした作品が多いが、「棗の木」のように名の付けられぬ微妙な人間関係を嫌味のないユーモアを交えながら丹念に書いた作品もある。子供っぽいのに大人。不真面目でありながら真面目。主観的かと思えば客観的。そんな掴みどころのなさに強く惹きつけられる。

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いたいけな瞳 (3) (小学館文庫)

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冥途―内田百けん集成〈3〉   ちくま文庫

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